静寂の中に生命のぬくもり 山々に囲まれた伝説の湯

HIDABITO 002

平湯民俗館 若月 加代子 氏

何もないでいいんです。

かちん、かちん、かちん。

平湯民俗館・食事処の縁側でくつろいでいると、朴葉、ナンテン、トチなどが茂った木立のそこかしこから、高い音が聞こえてくる。

「ほら、今のがトチの実の落ちる音」

ここで働く若月加代子さんがそう教えてくれた。

トチの実が降る木立の向こうに備え付けられた温泉、「平湯の湯」の掃除から戻ってきたところだった。

  • 平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像1)
  • 平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像2)
平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像3)

平湯の湯とそこに併設された平湯民俗館は、平湯温泉と総称される温泉地の一角、国道158号線添いにある。奥飛騨でもっとも古い歴史を持つ温泉地とされ、江戸時代にはすでに湯治場として人気を集めていた場所だ。平湯発見の由来としては、武田信玄に仕えていた山県昌景の軍が峠越えのさなか、老いた白猿の導きで平湯にたどり着き疲れを癒したという「白猿伝説」が知られる。

民俗館として使われているのは、赴き深い茅葺き屋根の民家二棟。江戸時代中期に建てられた入母屋造りの農家が資料館、合掌造の民家が食事処だ。従業員は若月さんともう一人だけで、基本的にどちらか一人だけで切り盛りしている。

「ここで働き始めて三年になります。一人で全部回さなきゃいけないから大変だけど、ここに来る人は皆せわしくないからなんとかなるんですよね。私がバタバタしちゃっていても、『大丈夫、温泉に入ってあったまってるからゆっくり準備して〜』と言ってくださったり」平湯の湯は、昨今少なくなってきた“寸志”で入れる温泉だ。女湯・男湯と分かれた脱衣小屋の手前に、寸志入れの木箱がひっそりと立つ。湯は鉄分を多く含んでいるため茶色く、甘めの香りがする。

「うちは平湯の中でも熱めの方ですね。とにかくあったまりますよ。胃腸病とかリウマチにいいそうです。泉質は炭酸水素塩泉。この間来てくださった男性のお客様は、お湯だけじゃなくて、浴槽周りの植木とかの配置とか、全部『素晴らしい!』って褒めてくれたけど、そんなにいいのかな」

働いていて一番嬉しくなる瞬間は? と訪ねると、お客さんの「あったまる」「また来ます」という言葉が聞けたとき、とのシンプルな返事。

「道の掃除なんかしているときに、お湯の方から『きもちいい〜!』なんて声が聞こえると本当に嬉しいですよね。ありがたいなって思います」

平湯の湯を含む平湯温泉は、長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる乗鞍岳の麓に位置する。標高は1250mあり、年間を通して気温は低い。冬は雪深く、夏には冷涼な風が吹く。寒暖差の大きい秋は、温泉に浸かるのにも、木立に囲まれた古民家に休憩しに来るのにもうってつけの季節だ。 「春はやっぱり新緑が綺麗ですよね。あとね、春はワタの木の綿が、まるで雪のように舞うんですよ。夏は一番いい季節じゃないかな。この辺は本当に涼しくてねえ。来たお客さんは皆、『これ、冷房じゃないんですか!?』って驚かれます」

平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像4)

冬も、スキー客などがわざわざここに足を運ぶという。こじんまりとした日帰り入浴施設だが、それでも四季折々の変化を求めてたくさんのリピーターが訪れる。どこでこの場所を知るのか、海外から訪ねてくる客も増えたとか。「私は英語なんて喋れないから、外国人のお客さんに何か聞かれた時はジェスチャーでなんとかします。あとは、英語が話せるお客さんに助けてもらったり(笑)。そういう人たちに助けられながら、見守られながら働いているんですね」 答えながらも、温泉から出て来た女性客と親しげに手を振り合い、会釈を交わす。

「リピーターさんとはすっかり顔なじみになっちゃって。お友達として仲良くさせてもらってる方もたくさんいるんですよ」

資料館の方に上がろうとすると、タタキに置かれたスリッパのうち、一組が一足しかないことに気がついた。

「これはねえ、キツネがこっそり持っていっちゃったんです。野生動物も色んなのがちょこちょこ来ますよ」

資料館の中に展示されているのは、飛騨で使われてきた農機具や衣類。実際に使い込まれてきた囲炉裏は、今も現役で薪を燃やしている。

「ここでも毎日必ず火は入れています。営業時間中は絶えないように気をつけてるけど、時々消えちゃってるかな」

平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像5)

木材煙には、茅葺き屋根の資材を有機化合物で覆い、虫除けや殺菌を促す効果がある。そのため昔の民家は、茅を傷ませないよう、常に囲炉裏に火を焼べていたそう。

「実際に火の入ってる囲炉裏って最近見る機会がないから、お客さんも喜びますね。『この匂い落ち着きますねー』ともよく言われるけど、私なんかはもう、煙の匂いが身体にしみついちゃって。人ごみの中でも私の匂いってわかるんだって(笑)」

囲炉裏は食事処にもある。あたたかい湯で流した後、カモシカの皮で作られた敷物に座り、囲炉裏の傍らでゆったりと食事や飲み物をとれば、なんとも贅沢な休憩時間の完成だ。

食事処のメニューは、ラーメンやおでんなど意外に豊富。人気の一品を訪ねると、「寒干大根カレーが一番人気」との答えが返ってきた。若月さんが自ら干した大根で作る特製カレーで、レシピを考案したのも若月さん自身だという。「寒干大根は、資料館の脇に吊るして作ります。去年は120本作ったかな。結構大変なんです、作るの。ふと思いついて作ってみた料理だったんだけど、お客さんには大好評で。近所の草刈りのおばあちゃんなんかが食べにきたりもしてね。温泉だけでなくこっちにもリピーターがついたってわけ。これだけは、私がここに来た甲斐があったんじゃないかって思うところ(笑)」

ユーモアを交えながら明るく解説してくれる若月さんは、もともとこの奥飛騨出身。愛知県の豊田市で会社勤めをしていたこともあったが、地元が好きで帰ってきたという。

平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像6)

「やっぱり都会じゃ暮らせないなってわかりましてね。田舎がいい、地元が一番好きだと思って戻ったんです」

若月さんにそこまで思わせた、飛騨の魅力とはいったい何なのだろうか。

「うーん、特別に『これがすごいから飛騨がいい』ということもないんですけどね。実際に住んでいると、そういうことはいちいち考えないし。でも、こういう自然とか温泉とか、私たちは当たり前だと思っているものに、外から来た人たちはいちいち感動してくれるでしょう。そういう土地に住めていること自体が幸せなんだなって思います」インタビューの間、来訪客の姿はまばらで、若月さんが中座するようなこともほとんどなかった。入浴客は一日に2〜30人ほど。シーズンを通しても、ここが混雑することはめったにないという。

「お客さんから『こんなに良い場所なんだからもっと宣伝すればいいのに、もったいない』と言われることもありますよ。でも多分、何もないからいいんですよね、こういうところは。だからこそいいんです。ここがごちゃごちゃ人だらけになったら、今ある良さがなくなっちゃうんじゃないかな」

食事処に何冊か置かれた来館帳をめくると、老若男女による素朴な、しかし気持ちのこもったメッセージを読むことができる。

「また来ますね」「もう三回目です」「あったまりました」――。

平湯民俗館 若月 加代子 氏(画像7)

ノートが買い足されるスピードは、他よりも遅いかもしれない。でもそのペースが、ここ平湯には合っている。

社名 平湯民俗館 平湯の湯
住所 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯温泉
電話 0578-89-3338 (ひらゆの森)
公式サイトリンク https://www.okuhida.or.jp/roten_catalog/detail?id=1779

その他の施設 店舗

社名 荒神の湯
住所 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷栃尾
電話 0578-89-2614 (奥飛騨温泉郷観光協会)
公式サイトリンク https://www.okuhida.or.jp/roten_catalog/detail?id=1253

その他の施設 店舗

社名 新穂高の湯
住所 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷神坂
電話 0578-89-2614 (奥飛騨温泉郷観光協会)
公式サイトリンク https://www.okuhida.or.jp/roten_catalog/detail?id=2204

その他の施設 店舗

社名 ひがくの湯
住所 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷中尾442-7
電話 0578-89-2855
公式サイトリンク https://www.okuhida.or.jp/gourmet/detail?id=1704
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