HIDABITO 015
野畑茶舗 野畑 和久 氏
お茶と言っても堅苦しくなくていいんです
まずはくつろいで楽しんでほしい
日本のちょうど中央あたりに位置しており、古来から京都とのつながりが深かった飛騨高山。元禄8年(1695年)からは幕府の直轄地となったこともあり、東西の文化を入り混じらせることで、独自の文化を今日まで築き上げてきた場所だ。
「どうも暑い中、遠路お疲れさまでございます。まずは一息入れてくださいね」
夏場の取材ということもあり、汗だくの取材班を気遣いのこもった一言と涼しげな笑みで迎えてくれたのが、老舗の茶舗である野畑茶舗の野畑和久さんだ。創業は明治13年。そう、様々な名物を数える高山が持つ食文化の1つは、お茶、なのである。
当地のお茶文化のはじまりは、江戸時代。高山城主2代目である金森可重の長男として生まれた金森宗和が、大坂冬の陣の際に廃嫡され、京都は宇治に移り学び開いた「宗和流」という流派に代表される。
「お茶の世界で御三家のような存在として、表千家、裏千家、武者小路千家を三千家と呼びます。私どもの宗和流は武士のお点前ということで、これらと少し違いがあるんですね。例えばお点前の際にも手のひらを見せません。『手の内を明かさない』ということなのですが、そのようなことから男の手前とも言われています」
その独特の美観と茶器のあり方から、飛騨春慶塗を広めることにもなった宗和流について教えてくれた野畑さんは、当代5代目。
「正直なところ、小さい頃はこの家業が嫌でしたね……(笑)。お茶の稽古をしなさい、と言われても正座は退屈ですし。小学校からは野球をやり始めたこともあって、外で遊ぶことも増えたので、ますますお茶から遠ざかってしまいました」
そんな野畑さんがお茶と再び向かい始めたのは、高校生の頃。よい年頃なのもあり、自分の家のあり方自体に興味を持ったそうだ。しかし大学進学で地元を離れ、外の世界を知るために、全く違う業界に就職。3年務めた後、25歳で家業を継いだ。
「うちはホテルや葬儀屋さんにお茶をお納めしていることもあり、まずは営業から始めました。それと同時に、お抹茶やお点前の修行をしていたんです。もともと人と話すことが好きで、改めて高山の方の人柄というものを知ることができ、お茶を通じてこの場所をより良くしていこう、と思えたんです。さ、ではそろそろこちらにどうぞ。お茶を点てさせていただきます」
そう言って通していただいた茶室は、どことなくモダンな印象。掃除も綺麗に行き届いており、良い意味で老舗らしさはない。聞くと最近になってから、作られたものだという。
「実は自分がお稽古をするために、作ってもらった茶室なんですね。それまでお稽古は外でしていたので、もっと効率よくしたくって。でも作ったら作ったで母の友人たちから使わせてほしい、という意見が出まして。それならということで、色んな方に使ってもらっているんです」
慣れない正座でお点前を拝見しながら話を聴いていると、すぐに足が痺れてきた。少しずつ重心を移動させながら、さて次に何を尋ねようか思案していると、すぐに野畑さんが声をかけてくれた。 「あ、どうぞ足を崩してください。茶道を嗜んでいる身がこう言ってしまったらダメかもしれませんが、堅苦しい必要はないと思っていまして。知り合いのお家にお呼ばれして、お茶とお菓子をいただくような気持ちで楽しみ、くつろいでもらいたいんです。そこで興味を持っていただいた方には、ぜひお茶の道に入ってもらいたいですね」 小さな頃にお茶に感じた堅苦しさを嫌い、まず間口を開いているのだと語ってくれた野畑さん。どこか高尚でとっつきにくいイメージのあるお茶の門戸を広げようと尽力しているのは、もちろんお茶の世界を知ってほしいからに他ならない。高山青年会議所の理事長を務めてきたのも、地元の町づくりを通して、お茶の魅力をどう届けるべきか考えられるよい機会だったという。
「今年で40歳になるということで、青年会議所は離れ、もう少し自分とお茶にかける時間を増やしていきたいんです。お弟子さんもちゃんととって、実感をもって文化を継承していきたいですね」
お茶の1番の魅力は所作と、おもてなしの心だと語る野畑さん。町全体が観光客を広くもてなす場所である高山が持っているのは、野畑さんの提唱する門戸を開いたお茶の心なのかもしれない。
社名 | 野畑茶舗 |
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住所 | 岐阜県高山市大新町 1-80 |
電話 | 0577-32-0820 |
公式サイトリンク | https://nobata-chaho.jp/ |