HIDABITO 020
津田彫刻 津田 亮友(すけとも)氏、亮佳(すけよし)氏
イチイの木からは学ぶことばかり。
木の思いに寄り添って彫ることが一生の課題です。
宮川にかかる赤い欄干(らんかん)の中橋。反対側を向けば、全国で唯一現存する江戸時代の代官所、高山陣屋。そんな高山の主要散策スポットからわずか2〜3分のところに、津田彫刻はある。「一刀彫」の看板は力強い筆致(ひっち)ながら、建物は風情ある町並みにやさしく静かに溶け込んでいる。
店舗の奥にあるガラス戸をのぞくと、二人の男性が机を並べて黙々と作品を彫っていた。津田亮友さん(手前)、亮佳さん兄弟である。シュッ、シュッ、シュッ、カッカッカッとそれぞれにリズムを刻みながら木を削り込んでいく。時折シンクロする鮮やかな手の動きに、息を飲んで見入ってしまう。
「ふだんはね、ラジオを聞きながらのんびりやっとります。毎朝9時に店に来て、12時には兄貴と弁当を食べて、3時にはお茶休憩。5時半には帰っとるね」おだやかな口調で話すのは、弟の亮佳さん。「今は観光客も少ないから、なかなか仕事に集中できますよ。ハハハ」快活に笑う亮友さんは亮佳さんの7つ上。共に高校卒業後、18歳で伝統工芸の道に入った。
一位一刀彫は、飛騨高山を代表する工芸品だ。その歴史は古く、江戸時代末期に高山の彫師・松田亮長(すけなが)によって生み出された。亮長は幼い頃から彫刻に魅せられ、20代で日本各地の彫工のもとを訪ね、神社仏閣の彫刻を研究しながら技を磨いた。そして高山に戻ると、飛騨の象徴であるイチイ材と運命的な出会いを果たす。彩色を施さずとも木肌そのものが美しいイチイに惚れ込み、考案したのが一位一刀彫だった。
「イチイは寒い地方の木で成長が遅く、木目が細かいのが特徴です。外側の白い部分を白太(しらた)、内側の赤い部分を赤太(あかた)いって、この違いを作品づくりに生かしています。木にもいろいろ育ちがあって、彫る部分の選び方を間違えると割れが入ってしまう。それをどう工夫していくか、何を作ろうかと考えるのも面白いもんです」
兄・亮友さんの解説をサポートするように、亮佳さんが店頭から縁起物の福良雀(ふくらすずめ)を持ってきてくれた。「頭の白い部分が白太、ぽてっとしたボディの部分が赤太です」冬の寒さに羽毛をふくらませた愛らしい姿が右の掌に収まる。木の肌触りがすべすべとして、なんとも心地いい。全方位から眺めていると、亮佳さんがさりげなく補足を加えた。「イチイ材は、空気に触れることで艶が増して徐々に飴色に変わっていくんです。経年変化もまた、一位一刀彫の醍醐味ですね」
昭和50年代、兄弟揃って伝統工芸士の国家資格を取得した。とはいえ、一位一刀彫の作風は6代に渡って伝承されてきた「うつし」ばかりではない。同じ環境に育ち、技術を磨いた兄弟は、それぞれの作品づくりにも力を入れる。
「娘を彫ってみたいと思ってから現代彫刻を始めました。コンクールで入選、入賞をいただくとそれがモチベーションになって、イルカや動物をモチーフにした次の作品づくりにつながっています」叩きノミで大きな作品づくりに勤しむ弟。かたや兄はまったく異なる発想で作品を創る。「最初はまっすぐの竹を彫ってみた。次は竹の根っこの部分にコブを作った。それだけでは面白味がないので、今度は根っこを曲げた形で彫ったら一つの置き物になった。私が惹かれるのはそんな立体的な造形。たとえば表裏が一度に見えるメビウスの輪のような、作品をつくるのが好きですね」
兄弟二人、互いの個性と異なる作風を尊重しながら、共に超えられないのは父である5代目・亮定だと口を揃える。「僕らがこうして自由なものを作ってこられたのは、親父の影響が大きいね。技術は惜しみなく教えてくれたけど、厳しいことをいっぺんも言わなかった。いつもたばこを吸いながら、ハハハと笑ってのんびりしとった。あの大らかな気風があったから、僕らも自然とこの道に入ったんだと思います」と、兄の亮友さん。
「騎龍観音(きりゅうかんのん)は親父の傑作の一つです。親父みたいな作品を彫ってみたいと思いながら、やっぱり真似したくても真似できない。一体どういう発想をもとに彫っていたのか。どれだけ技を磨いても、そこは到達できそうにないですし、まぁ自分は自分の作風でいくしかないと思っています」そう話す弟・亮佳さんは至って自然体だ。
各地の伝統工芸産地と同じく、一位一刀彫もまた後継者問題を抱える。兄弟は打開策を探りながらも、「なんだかここだけ雰囲気は平和やわ」と穏やかに笑い合う。彫師の家に生まれた運めに抗うことなく、どんなときも泰然自若(たいぜんじじゃく)。二人は今日も粛々とイチイの木と向き合っていることだろう。
社名 | 津田彫刻 |
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住所 | 岐阜県高山市本町1丁目10 |
電話 | 0577-32-2309 |